ヨーロッパの地質
理科研究室新聞
編集:小県東部中学校理科教科会
○ アルプス造山運動と地質・氷河が造った地形・始祖鳥のふるさと ○
始祖鳥の化石 信濃教育会“ヨーロッパ地質研修”より

1,はじめに
 フランスとスイスの国境からスイスを経てオーストリアの首都ウィーンの近くまで伸びる総延長1200キロ・幅100〜200キロの山脈がアルプスである。私達はこのアルプスの中でも、スイスの中央部ベルナーオーバーラントと呼ばれる山群の中の、ユングフラウ山(4158m)・アイガー山(3970m)の麓グリンデルワルトを訪れることが出来た。今回の研修では、グリンデルワルトから登山電車を利用してユングフラウヨッホへ、また氷河で削られた丘陵の牧草地帯を歩いたり、リフトを利用してフィルストから、これらの山群を望むなど、色々の角度から中部アルプスの一端に触れることができた。そして、グリンデルワルトを出発してからは、氷河が残した湖ブリエンツ湖を左に見ながらルツェルンへ向かった。ここでは氷河公園を見学する事ができた。その後チューリッヒ、オーストリア領を通過しドイツ領に入り、ミュンヘンに到着した。ミュンヘンから始祖鳥のふるさとゾルンホーフェンに向かう。ここでは、博物館や採石場を見学することができた。
2,アルプス造山運動
 アルプス山脈が隆起を始めたのは、今から7千万年前以後の新生代に入ってからである。同期の山脈としては、アルプス山脈につながるヒマラヤ山脈や太平洋をめぐるロッキー山脈やアンデス山脈の環太平洋山脈がある。これらの山脈をつくりあげてきた造山運動をアルプス造山運動と総称している。
@約一億八千年前に、中部ヨーロッパは深さに幾分変化はあるが、広くて浅い海におおわれていた。(テーチス海)海岸のあたりやその先の海底に川が運んできて沈積し、砂岩・沈灰岩・石灰岩や粘土の堆積岩が生じた。(地向斜の海)
Aヨーロッパ大陸とアフリカ大陸はこの頃、現在よりも西の大西洋中央部にあり、二つの大陸はともに東に向けて移動した。しかし詳しく見ると、ヨーロッパ大陸に比べアフリカ大陸の方が北上している。このアフリカ大陸の北上がアルプスの隆起と関係している。
B北上したアフリカ大陸の先端は、ヨーロッパ大陸の下へ潜り込んだ。(クレタ島の南に海溝に似た深い海の部分があり、このような深い海の部分からアフリカ大陸が地球内部にもぐり込んだ。)ヨーロッパ大陸の下へもぐり込んだアフリカ大陸の先端は、浮き袋のようなはたらきをして、その上にあるヨーロッパ大陸(浅い海の底の岩体)を隆起させた。
C同時にアフリカ大陸の北上に伴い強い推進力がはたらき、南にある陸塊を北へ押しやった。地殻は弱い部分でその堆積層もろとも波状に褶曲作用をこおむった。背斜部は海面上に姿をあらわし長くのびる島が列島となり、ただちに浸食作用を受けはじめた。
D絶え間なく続く衝上運動は褶曲のひだをいっそう高め、ついにはその一部が北へ向かって断裂してのしあがったり、一部はその剪断面の上を北へ向かってデッケとなって滑り動く結果を生んだ。南に根源があるデッケはいずれも、さらに前方にあるデッケの上に屋根瓦状に重なって移動した。
E古河川(古ローヌ川・古ロイス川・古ライン川)はデッケのふくれあがりの中に谷を刻み込み、大量の物質を流し、それを海底に堆積させた。そして扇状地や三角州がいくつも成長した。こうしてできたのがナーゲルフルー(礫岩の一種)・砂岩および泥灰岩で、モラッセと呼んでいる。
F南方から加わった最後の推力により、アルプス辺縁部のモラッセの地層はアーチ状に持ち上げられ、その上一部では断裂し、アルプスの山体がその上に押しかぶさった。この激しい運動はモラッセの堆積した海域の北端部まで及んだ。それはまた、その場所で中生代(約2億5千年前)以降、堆積した石灰岩の地層を押したためジュラ山地まで高めた。
Gアルプスの中央部では、マグマが花崗岩の基盤岩を押し上げた。そのためその上をおおっていた石灰岩の地層は急速に破壊され、そこには現在は花崗岩やそれに近縁の岩石が露出しているが、他方その北のデッケ部分では石灰岩が卓越している。(石灰岩アルプス)
こうしてアルプス山脈ができたのである。アルプス山脈の隆起は今なお続いており隆起速度は一年約一ミリメートル程である。もぐり込んだアフリカ大陸の先端とヨーロッパ大陸との摩擦によって地震が起き、活火山ができる。イタリアなどで起こる地震や、ベスビオス山・エトナ山などのイタリアの活火山もそのあらわれである。

3,スイス付近の地質の概略
 アルプスは西部・中部・東部アルプスの三つに分けられる。私たちが見た地域は、中部アルプスである。ここは、南から北に帯状にペニン帯(ツェルマット付近)ヘルベチヤ帯・中央山塊(グリンデルワルト付近)・モラッセ帯(ルツェルン・チューリッヒ付近)に分けられる。大まかには北側ほど若い時期の地層が見られることになるが、細部は必ずしも単純ではない。
@ヘルベチア帯(中央山塊)とフリッシ
 中央山塊は、アルプスの中でも古い基盤岩が露出している地域で4千メートル級の山並みが東西方向に連なっている所である。そして二つに大きく分けられ、北はアールマシブ、南はゴットハードマシブといわれ、総計で長さ115キロ、幅は30キロの広がりを持っている。ここ中央山塊では北から南に帯状に片麻岩・花崗岩などの結晶質岩石が見られ、中に中生層がはさまれている。中生層の多くは、結晶質岩石の上に堆積したものである。アルプスの隆起に伴い中央山塊は北方へスラストしだしたため、中生層の大部分は削剥されなくなってしまった。そのため、再び結晶質岩石が露出するようになったのである。このように、スラスト構造部分をヘルベチアデッケといい、中央山塊の北に分布している。グリンデルワルト地域はヘルベチアデッケの前縁部にあたっている。 グルンデルワルトには、スレート様の岩石がありフリッシュ(アルプス褶曲の造山時堆積物)と言われ、滑りやすい頁岩層となっている。これに対し、ヴェッターホルン・アイガーは切り立った断崖を見せ、山の下半分は前期白亜紀の明るい色のエールリ石灰岩、山の上半部は、黒っぽいマルム石灰岩が見られるとのことである。ユングフラウ・ヨッホへの登山電車の中から、途中工事しているところや、アイガーの山体を7キロにわたってくりぬいたトンネルの中でも石灰岩を見ることができた。
Aモラッセ
 グリンデルワルトへの入口にあるチューン湖付近のアルプス前縁部では、フリッシュの上にモラッセ(後造山時堆積物)が堆積しているとのことである。モラッセ層の基盤にはマルム石灰岩のあることが確かめられているが、始新世にこの石灰岩の大部分が浸食された。その上に漸新世に入って、フリッシュから始まるモラッセが三千メートル近くも厚く堆積した。このモラッセは詳しくみると、3500万年の間、下部海水・下部淡水・上部海水・上部淡水と堆積環境が海→陸→海→陸と変化していることが知られている。ルツェルンでの砂岩は、中新世の上部海水モラッセに相当する。ここルツェルンの氷河公園で敷地に入ってすぐの所には「ひん死のライオン像」が彫り込まれている。これが彫り込まれている地層と、公園地域に見られる地層は二千万年前の砂岩である。この砂岩を構成する堆積物は、隆起が著しくなったアルプス山脈からの供給物である。なおこれらモラッセは、アルプス前面にほぼ東西方向に広く分布している。ライオンの像の崖には、地層面がはっきり認められ、北へ約四十五度の傾きを示している。モラッセが堆積した後、引き続くアルプスの隆起変動(今から500〜1000万年前頃の変動)による傾斜とのことである。
アルプスヒマラヤ造山帯の褶曲がはっきりしており、感慨深く見学することができました。 左の褶曲構造の一部分を拡大したところです。
4、氷河
 アルプスやヒマラヤなどの写真の中には、鋭くとがった 峰々の間をうずめている氷の帯が見られる。この氷の帯(氷の塊)は、それ自身の重みで山の斜面に沿ってごく緩やかな速度で動き出して、谷間をうずめて流れ下るのである。これが河の流れのように見えることから「氷河」と呼ばれ、流れる速さは、速いもので一年に5キロ、おそいものは100メートル以下である。しかし、氷河にはアルプスなどで見られるような山頂付近から谷に沿って河のように流れるものだけでなく、グリーンランドの氷河のように厚さ300メール以上の氷の塊が陸地をすっかりおおっているようなものもある。前者を山岳氷河・後者を大陸氷河と呼んでいる。
 ヨーロッパアルプスの氷河はもちろん山岳氷河である。そしてこの山岳氷河も、圏谷氷河(山頂近くの小規模なもの)と、谷氷河(起伏の大きな山地の谷を埋めるもの)とに分けられる。 
 氷河のできる場所ーおなじ地方でも、平地に降った雪はすぐ融けてしまうが、山の山頂付近では残雪がいつまでも消えない。高いところほど、気温が低いからである。そうなると一定の高さに達すると融雪量と降雪量とが等しくなる地点がでてくる。このような点を結んだ線は、万年雪のできる場所の下限となる。これを雪線と呼び、これより高い位置にできた万年雪は年ごとに厚さを増し、やがて固まって氷となり流動性をおびて下方に移動を始める。これが氷河である。雪線より上は万年雪が厚さを増し氷河を産み出すところ(滋養区域)で、雪線より下方の流れ出していく氷河は次第に融け、最後は消えてしまうところ(消耗区域)である。この2つの区域はほぼ一定の比をもった面積をしめる。
 氷食地形ー現在は氷河はないが、かつてあったところには、氷河の浸食作用による、圏谷(カール)・U字谷・氷河擦痕などが見られる。今回の研修でのアイガーの麓の村グリンデルワルトもU字谷の底にできたもの(写真@)であり、カールも多々見かけることができた。また氷河擦痕は、ウェールズ(イギリス)のスノードニア国立公園でははっきりした物があった。ルツェルンの氷河公園では、よく保存され,堆石もおかれていた。
ルツェルンの氷河公園
現存する山岳氷河
5,始祖鳥のふるさと
 南ドイツ・バイエルン地方のミュンヘンとニュルンベルグを結ぶほぼ中間の位置にゾルンホーフェンという田舎町がある。バスにてミュンヘンを出発して、途中何人かのドイツ人にバスの運転手さんがこの町について聞くが知らない人がいるくらいな小さな町であった。(ドイツのベテラン運転手さんも初めて行くところとのことであった。)
 ゾルンホーフェン付近は、ジュラ紀後期の岩石で海綿やサンゴの環礁を含み、その内側に非常に純粋な細かい組織の石灰岩として堆積している。これは黄白色をした石版石(持ち帰ることができた)で、白ジュラの下部(一億四千万年前に堆積)に属するとのことである。なおこの石版石は、化石の採集のためというよりは、採掘されては、彫板と石版印刷のために世界中に送られていた物である。(私達が訪れた博物館も、ある石材会社の建てた物である。)こうして多くの化石が産出されてきたのである。
 傷がなく細かい粒からできたゾルンホーフェンの石は、生物体の有機物の組織の微妙な様子の保存にも一役かうことができた。例えば、クラゲのように柔らかい組織を多くもつジュラ紀の動物についても知識を与えてくれているのである。普通他の産地では、動物が殻だけからしか分からないものでも、殻以外の組織の感じをよく保存していてくれるのである。
 石版石化石で特に有名な物は、何よりもまず始祖鳥であり、生物進化の道筋をたどる上できわめて貴重な化石である。中学校の理科の教科書にも載っている。(なお、これは1877年に採取された物で第二標本といわれ、ベルリン博物館にある。)1860年に羽毛が、その翌年には鳥類と判定できるよい標本が採取され、アーケオプテリクス(ギリシャ語で古代の翼の意)と名付けられた。ここゾルンホーフェンの石のおかげで、微妙な羽毛の様子が残され、これゆえに始祖鳥はは虫類ではなく鳥であったということが証明されたのである。また他には、翼や尾の膜の形がはっきりと保存されている翼竜も展示されていた。他の場所ではほとんど保存されていないものでは、次のようなものがある。それは、8種類のクラゲ・蚊・ハエの仲間を含めて1000種類以上の昆虫・エビ・カニ類や魚類の化石である。細かく見ていくと、一匹の恐竜・約30体の翼竜・数羽の鳥の他に、は虫類(ワニ・カメ・トカゲ・・・)両生類、昆虫類、魚類、種々の二枚貝、アンモナイト、エビ、カニなどの甲虫類、ウミユリ、ヒトデ、クラゲ、植物など、陸上から空中や水中までの色々な環境の多種多様の生物化石がある。量からいうと魚と昆虫が多く、生痕化石も少なくない。そして、ここから産出した化石は何千個にも達し、その種類は600を越えるとのことである。
 これら残された化石から考えると、ここの石は本土から遠くない所にあった環礁の内部の潟での堆積物であろう。発見された化石を見ると、陸棲・淡水生・海棲の各種の生物があることからもはっきりしてくる。また、これだけ完全な化石が産出してきた理由は、前にも述べたように非常にきめ細かな石灰岩であったということだけでなく、堆積速度もかなり速いものだったと思われる。というのは、埋まる前にバラバラにされることがなかったことや、写真に見られるように、カブトガニが歩き回ったすえに、そのまま足跡とともに化石になった状態などから、急速に埋没されたと考えられるのである。
東西ドイツの統一前に出かけたのだが、その当時、ドイツの経済を底辺で支えているのは、外国人労働者であった。調度現在の日本のように、あちこちにドイツ人以外の人の姿を見かけることが多かった。そんな外国人の少年が化石を販売していた。そこで買ったのが左上のベレムナイト(矢石)と右上のアンモナイトである。なおアンモナイトは内部が残っているものである。
博物館ではカブトガニに珍しい化石を観察することができた。どうやら、カブトガニがはっている所に土砂がかなりの速度で堆積したと考えられ、足跡の化石(生痕化石)と普通の個体の化石が同時に見られるものであった。
彫板や石版印刷のために採掘された石版石は、傷がなく細かい粒からできているため昆虫等も化石として残っている。それもかなり微妙な様子まで保存されている。
↓下の石は石切場でもらってきた石版石である。初めて見た目には泥岩という雰囲気であった。
アルプスの氷河や、氷河の残した地形、そしてゾルンホーフェンの化石と、自然の造形のすばらしさに触れることができたことは本当に幸せでした。なお、このような発表の機会をお与えいただいたことを心から感謝申し上げます。                                           <上高井教育 第43号>昭和61年度


  • できるだけたくさんの経験を積もうと、無理をしてでも(金銭的にも・・・)機会があれば出かけるようにしてきました。この他にも数年前にアメリカへの研修、又その後には中国、韓国等々への研修にも出かけてきました。また報告したいと思います。写真を見ていただくだけでもすごいと感じていますので。





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